こんにちは!
忙しい人のための神話解説コーナーだよ!
この記事では、忙しいけど日本神話についてサクっと理解したいという方向けに、『古事記』をベースにした神話のメインストーリーをざっくりとご紹介していきます。
とりあえず主だった神さまの名前と、ストーリーラインだけ押さえておきたいという方向けのシリーズとなります。
『日本書紀』にのみ見られる独自の展開や、各地に伝わる『風土記』に記されたエピソードなどは、神さま個人(神)を紹介した個別記事をご覧ください。
とりあえず大まかな流れをつかむというコンセプトじゃ
補足情報は【Tips】として解説しとるが、読み飛ばしても全然OKじゃぞ
関連記事のリンクを貼っているから、
気になった方はそちらもチェックしてね
ではさっそくいってみよう!
忙しい人はコチラから本編にすっ飛びじゃ
この記事は、以下のような方に向けて書いています。
- 日本神話にちょっと興味がある人
- 日本神話に登場する神さまのことをざっくり知りたい人
- とりあえず誰かにどや顔でうんちく話をしたい人
- 日本神話のメインストーリーをざっくりと把握出来ます。
- あなたのエセ教養人レベルが1アップします。
まじで忙しい人のための結論
本気で忙しいあなたのために、今回ご紹介する物語のストーリーラインを、箇条書きでざっくりまとめておきます。
ぱっと見で把握してね
何ならここを読むだけでもOKじゃぞ
今回ご紹介する『倭建命の遠征』のストーリー
- 第十二代景行天皇の皇子である倭建命は、父の命令を曲解して兄・大碓命の命を奪ってしまい、その凶暴性を恐れた天皇によって遠征を命じられる
- 筑紫(九州)へと向かった倭建は、叔母の倭比売命から授かった巫女の衣装を着て宴に潜り込み、熊曾建の兄弟を討伐する
- 故郷に戻る道すがらその他の神々も平定・帰順させた倭建は、出雲国(島根県)に住む出雲建に友人として近づき、完全な騙し討ちで彼を征伐する
- 父・景行天皇のもとに凱旋した倭建は、労いの言葉も休む間もなく東征の旅を命じられる
- 相武国造の奸計に嵌められた倭建は、叔母の倭比売から授かった都牟刈太刀と火打ち石によって窮地を脱し、「草薙剣」の由来譚となる
- 走水海(浦賀水道)で立ち往生した倭建の一行は、妻・弟橘比売命の犠牲により先へと進み、ついに東征を完了する
- 尾張国(愛知県)に住む美夜受比売と結婚した倭建は、彼女の元に「草薙剣」を置いたまま伊吹山の神の平定に向かう
- 敵の力を見くびった倭建は荒ぶる神の祟りにやられてしまい、故郷の大和国(奈良県)へと向かう途中で息を引き取る
- 倭建は白鳥となって飛び去り、「草薙剣」は熱田大神として祀られる
そもそも「日本神話」って何?
「日本神話」とは、ざっくり言うと「日本ってどうやって生まれたの?」を説明してくれる物語です。
原初の神々や日本列島の誕生、個性豊かな神さまが活躍する冒険譚や、彼らの血を引く天皇たちの物語が情緒豊かに描かれています。
現代の私たちが知る「日本神話」の内容は、『古事記』と『日本書紀』という2冊の歴史書が元になっています。
これらは第四十代天武天皇の立案で編纂が開始され、それぞれ奈良時代のはじめに完成しました。
国家事業として作られた以上、政治的な色合いがあることは否めませんが、堅苦しくて小難しいかと思ったらそれは大間違い。
強烈な個性を持つ神々がやりたい放題で引き起こすトラブルや恋愛模様は、あなたをすぐに夢中にさせることでしょう。
「日本神話」の全体像は、以下で解説しているよ!
さぁ、あなたも情緒あふれる八百万の神々が住まう世界に、ともに足を踏み入れてみましょう。
主な登場人物
この物語の登場人物(神)をざざ~っと挙げておくぞい
エピソード8/狂皇子は白鳥の夢を見るか
―前回までのあらすじ
鵜葺草葺不合命と玉依毘売命の間に生まれた長男・五瀬命と末っ子の神倭伊波礼毘古命は、父親から地上の統治を引き継ぎ、日向国(宮崎県)の高千穂の宮に残りました。
伊波礼毘古が45歳の時、塩椎神の助言を受けた兄弟は、より良い統治の場所を求めて東方への旅を決意。
有名な『神武東征』が始まります。
一行は軍備を整えながら豊国の宇沙(大分県宇佐市)や筑紫国の岡田の宮(福岡県遠賀郡)などを経て本州に上陸。
ここまでは順調に旅を続けた伊波礼毘古たちですが、そんな彼らを試すかのように、次々と大ピンチが訪れます。
一行が青雲の白肩の津(東大阪市日下町)で那賀須泥毘古の待ち伏せ攻撃を受けた際、敵矢に当たった兄・五瀬が命を落としてしまいました。
熊野の村で熊野山之荒神の霊力にあてられた伊波礼毘古たちは全員気を失ってしまいますが、天の神々により遣わされた高倉下命と霊剣・布都御魂の力により九死に一生を得ます。
八咫烏の道案内も得た軍勢は旅を続け、兄宇迦斯や八十建といった敵を撃破。
兄の仇である那賀須泥毘古を討ち取り、後を追ってやって来た邇芸速日命を臣下に加えた伊波礼毘古は、ついに大和国(奈良県)へとたどり着きました。
彼は畝傍の白橿原(奈良盆地南部)に宮殿を建てて天皇に即位し、ついに天下を治めることになったのです。
伊波礼毘古は137歳で崩御、偉大な功績を残した彼には、後に「神武」という漢風諡号が贈られました。
その後も初代天皇の系譜は連綿と続きます。
第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までの「欠史八代」と呼ばれる世代を経て、第十代崇神天皇と第十一代垂仁天皇の時代には個性的な神々が大暴れ。
そして神話の次の物語は、第十二代景行天皇の御代にて動きはじめます。
前回のストーリーはコチラ!
今回は、誰もが知る日本神話のスーパーヒーロー・倭建の物語だね!
この話こそ、ほぼほぼ人間しか登場しないストーリーよね
とはいえ、日本神話のなかでも特に外せない名場面じゃろぅ
勘違いか思い込みで実兄の命を奪い、父に疎まれて遠征に行かされる【狂皇子の旅立ち】
時代は第十二代景行天皇の御代のこと。
天皇には合わせて80人以上の子どもがいましたが、彼はそのうちの3名を日嗣の御子(天皇の位を受け継ぐ予定の御子)として側に置き、他の子どもたちは諸国に送り出していました。
その選ばれし3名というのが、若帯日子命(後の第十三代成務天皇)と五百木之入日子命、そして今回の主人公・倭建命です。
「倭建命」または「日本武尊」は、正式には物語の中盤に登場する名称で、幼いころの彼の名前は「小碓命」といいます。
本来はその時々で適切な呼称を用いるべきですが、分かりやすさを重視する当ブログの方向性にのっとり、本文中では一括で「倭建」と呼んでいます。
分かりやすいほうが良いよね!
倭建はある日、父・景行天皇に呼び出されて、彼の兄である大碓命について尋ねられます。
お前の兄ぃは最近、朝夕の食膳にも出て来ん
お前が行って、「ねぎ教え覚ませ」て来いやぁ
合点承知の助!
古代の朝廷において、朝夕の食事を天皇と同じ席についてとることは、恭順の意を示す大切なお作法とされていました。
たしかにこれは重大なマナー違反、倭建は兄・大碓に事情を聴いてみる事にします。
ちなみに、この時景行天皇が発した「ねぎ」という言葉は、「労い」「慰労」または「丁寧に」といった意味を持ちます。
つまり、天皇は倭建に対して、兄をしっかり慰撫して教え諭してくるよう命じたことになります。
普通なら言われた通りのことをして終わるだけですが、そこは神話の主人公。
倭建は父の命令を盛大に曲解し、物語の発端となるとんでもない悲劇を引き起こすことになります。
そんなこんなで大碓のもとを訪ねた倭建、彼が兄に事情を問うと、概ね以下のような経緯があったそうな。
実はのぅ…
あるとき景行天皇は、美濃国(岐阜県)に住む兄比売と弟比売の姉妹がとても美しいという噂を聞きつけ、彼女らを妻に迎えようと画策します。
そこで使いに出されることになったのが大碓、彼は姉妹を迎えに現地へと向かいました。
あんだけ嫁も子もおってまーだ欲しいんかい…
どんなバイタリティやねん…
父親の新しい妻を迎えに行くという、なんともやる気の出ない仕事にうんざり気分の大碓ですが、件の姉妹を実際に見た彼は別の方向にそのやる気を滾らせます。
聞いていた以上に美しい兄比売と弟比売に一目惚れしてしまった彼は、なんと父の勅命を握りつぶし、自身が姉妹と契りを結んでしまったのです。
さらに大碓は、天皇の妻候補を横取りしただけでなく、その身代わりとしてよく似た別の姉妹を父親に差し出したとのこと。
どうやらそれが気まずいやら引け目に感じるやらで、兄は食事の席にめっきりと顔を出さなくなった、という事のようです。
いやぁ~、さすがに絶対バレてる気がするって~…
でもよく似とるんなら、その姉妹も美しいんやろ?
そやけど、親父その子らには一切手ぇ出しとらんのよ…
ほ~ん…まぁ事情は分かったわ
それから5日ほど経っても、相も変わらず食事の席に顔を見せない大碓に、さすがの景行天皇も業を煮やします。
彼は改めて倭建を呼び出し、兄の件がどうなったか問い詰めました。
例の「ねぎ」教えるの件、どうなっとんのかい!
え?
もうとっくに「ねぎ」りましたぜ?
そりゃあもう派手に「ねぎ」り倒したりましたわ!
わっはっは!
…?
じゃあ、あれがここにおらんのはどういうワケじゃい…?
倭建から詳しい事情を聞いた景行天皇の顔からは、瞬く間に血の気が失せていきました。
何と彼は、兄・大碓が厠(=トイレ)に入ったのを見計らって背後から襲撃し、滅多打ちにして身体をバラバラに引き裂いたうえ、薦に包んで裏庭に投げ捨ててしまったというのです。
だって父上、「ねぎ」って来い言いましたやん…?
(怖っっっっっっわ!!!!!)
(マイソンながら、こいつヤバ過ぎるでしょ…)
若干16歳の息子に異常な残虐性と凶暴性の片鱗を見た景行天皇は、次第に倭建を恐れ疎ましく思うようになり、あるとき彼にこんな命令を下します。
西の方に熊曾建とかいう兄弟がおってのぅ
そいつらがわしらの言う事聞きよらんのじゃ
お前さん、ちょっと行ってシバいて来いや
(そして、もう戻って来るな…)
合点承知の助!
父の思惑を知らない倭建は、自身の能力が認められたのだと素直に大喜び。
彼は意気揚々と出立し、まずは伊勢国(三重県)に住む叔母の倭比売命のもとに、季節のご挨拶に出かけます。
よっ、オッバ!
倭建を出迎えた倭比売は複雑な心境を抱いていました。
わざわざ顔を見せに来た甥っ子を可愛いと思う一方で、彼女もまた先日の彼の凶行について聞き及んでいたからです。
兄ぃ、体よく厄介払いしよってからに…
甥っ子にも明らかな過失はあるものの、無邪気に死地に追いやられようとする倭建を気の毒に思った倭比売は、彼に巫女の衣装と短刀を授けました。
これが何になるのん…?
まぁ、行けば分かるから
使い道は分からないものの、叔母から重要そうなアイテムを授かった倭建は血気盛んに伊勢の地を出立し、一路筑紫(九州)へと向かいます。
怖っわ!!
序盤からサイコパス全開じゃない!!
娘の横取りを王権への反逆と捉え、
大碓を討伐の対象と見なす説も存在するぞい
さー!ガンガン進んでいこーっ!!
女装して宴に潜入!華麗にバックスタブを決めて熊曾を平定する【VS.熊曾建】
西に向けて旅を続けた倭建は無事に筑紫(九州)の地に上陸し、現在の熊本県と鹿児島県付近にあたる、熊曾の勢力圏内へと入ります。
彼はさっそく敵陣の視察にあたりますが、さすがは近辺を支配する熊曾建、彼らが住む館の周辺には数多くの軍勢が守備についており、単独では手の出しようがありません。
その一方、敵は新たな家屋の建築も進めているらしく、もうじき行われる新室祝いの準備で忙しくしており、不特定多数の人々が領内に出入りしている様子。
ほ~ん、これは使えるかもわからんね!
倭建はその祝宴の日を待ち、叔母の倭比売からもらい受けた衣装を身にまとって女装します。
こうして彼は、給仕のために出勤してきた女性たちに紛れて、邸内への侵入にまんまと成功しました。
異常な凶暴性をもつとはいえ天皇家の御子である倭建、その育ちの良さは本物で、彼の立ち振る舞いから滲み出る気品はすぐに熊曾建兄弟の目に留まります。
これ、そこの可愛いの
こっちに来いや
何と品の良い女子じゃぁ~
彼は兄弟の間に座らされ、幸運な事に、いとも簡単に敵の懐に入り込むことが出来ました。
それからしばらくは盛んに酒が酌み交わされ、祝宴の盛り上がりは最高潮を迎えます。
倭建は宴もたけなわとなった頃合いを見計らい、倭比売から授かった短刀を鞘から抜くと、まずは兄の胸を一息に貫きました。
グフゥツ…?
声を上げる間もなく倒れ込む兄を見た弟は、恐れをなして逃げ出そうとしますが、倭建はすかさず彼を捕えてその尻に刃を突き立てます。
もはやこれまで、敗北を悟った熊曾建・弟は、自分たちの命を奪う謎の人物の正体を知りたいと思ったようです。
お、おどれ…
どこの回し者じゃい…
わしは景行天皇の皇子・倭男具那命*!
朝廷にまつろわぬ貴様らを討伐しに来たのじゃ!!
※彼の別称
ここら一帯にはわしらより強い者はおらん…
大和国(奈良県)にはとんでもないバケモンがおるんじゃのう…
今後はわしらの名を取って、倭建御子とでも名乗ったらえぇ…
なるほどね、いただきっ!!
熊曾建・弟が必要なことを言い終えたとみた倭建は、彼の身体をいともたやすく斬り裂いてしまいました。
これまで正式には「小碓」や「倭男具那」の名で呼ばれてきた彼ですが、この場面でついに、古代日本に燦然と輝く「倭建命(日本武尊)」という名称が誕生したのです。
倭建の名は敵から贈られたものだったのね!
古代において、
敵に名を献上することは服属を意味していたのじゃ
しかし結構トリッキーな戦い方をするものだね
こうして見事熊曾を平定した倭建は、筑紫(九州)の地をあとにして、ようやく帰路に就くことが出来ました。
さー!ガンガン戻っていこーっ!!
帰りの道すがら地方の神々を叩き潰し、調子に乗ってるヤツを騙し討ちで屠る【VS.出雲建】
熊曾建討伐の使命を無事に果たした倭建ですが、彼は直接大和国(奈良県)には戻らず、日本海側の出雲国(島根県)を経由して地元に帰ることにしました。
他にもなんか手土産があれば、父上も喜ぶやろ!!
倭建はその道中においても、山の神さまや河の神さま、海峡の神さまなど、朝廷に従わぬ神々を次々にシバきあげて平定・帰順させていきます。
地方の神々からすれば迷惑極まりない暴力の台風のような彼ですが、その圧倒的な強さの前にほとんどの者が膝を屈しました。
そんな折、出雲国(島根県)に入った倭建はこんな噂を耳にします。
(出雲建とかいう者がこの辺で調子に乗っとる…?)
(そらきっちり〆て帰らんと、さて、どうするかのう…?)
またも計略をめぐらせ始めた倭建、彼は出雲建に正面から勝負を挑むのではなく、まずは何食わぬ顔をして友人として近づくことにしたのです。
もうすでになんか怖いんですけど
ふっふっふっ…
特に疑われるでもなく出雲建と懇意になった倭建は、ある日彼にこんな提案をします。
やぁわが友よ!
こう暑くてはかなわん、共に水浴びにでも行かないか!
もちろんだマイフレンド!
さっそく向かおうではないか!
連れ立って肥河(斐伊川:島根県東部~鳥取県西部)を訪れた2人は沐浴を行って心身を清めますが、先に河からあがった倭建がこんなことを言い出しました。
なぁ友よ!
我らの友情の証に互いの太刀を交換し、
軽く手合わせしようではないか!
もちろんだ盟友よ!
受けて立とう!
倭建は出雲建の太刀をぬらりと抜くと、大上段に構えて試合に備えます。
その一方、出雲建は何やらまごついており、うまく刀を抜けずにいるようです。
それもそのはず、倭建が彼に渡した太刀はいちいの木で精巧に作られた偽物で、つまり単なる木刀だったのです。
出雲建ぅ!!
その命もろたでぇぇぇ!!!
キィエェェェェェェェィィィ!!!!!
うぎゃぁ~
なんと倭建は、慌てる出雲建に一方的に襲いかかり、清々しいまでの騙し討ちで彼を一刀のもとに斬り伏せてしまいました。
友になれたと…
思ったのに…バタッ
偽りとはいえ、今日まで友人として過ごしてきた出雲建の亡骸を見下ろした倭建は、おもむろにこんな歌を詠います。
やつめさす
出雲建が
佩ける太刀
黒葛多纏き
さ身無しにあはれ
(意)あっれれ~?おっかしいなぁ~?出雲建君の太刀、見た目は立派なのに肝心の刀身が無いぞぉ~?
無情にも程がある和歌を詠んだ倭建は、数々の副産物を手土産に、一路大和国(奈良県)へと戻ります。
精一杯オブラートに包んで表現するわね…
とんっでもないク〇野郎じゃねぇかっ!!!
現代の価値観で神話を裁いてはいかんぞい
現代人である私たちの感覚からすると、とても主人公とは思えない卑劣な外道っぷりを発揮している倭建。
しかし現実の古代世界においては、たとえ智謀や計略を駆使してでも、とにかく敵に勝利することが英雄の条件とされていたのも事実です。
当時は勝ち方自体はたいして重視されず、どんな手を使ってでも勝利して、最後に立っていた者だけが英雄として称えられたのです。
わしの時代では、これがジャスティスだったから!!
西征から帰ったら東征を命じられ、さすがに父親の意図を察する【VS.相武国造】
熊曾建ばかりか出雲建までも討ち取った倭建は、堂々たる態度で大和国(奈良県)に凱旋し、父・景行天皇に事の子細を報告しました。
(お侍さまの戦い方じゃない…)
それなりの出迎えや労いの言葉を期待した倭建でしたが、そんな彼を待ち受けていたのは、容赦のない過酷な次なる勅命でした。
東方にも12ほどまつろわぬ者どもがおってのぅ…
そいつらどうにかしてきてくれや…
合点承知の…すけ…?
景行天皇は、長い西征の旅から生還した息子を褒めて遣わすこともなく、その疲れも癒えぬうちに東国への遠征を命じたのです。
さらに、東征にあたって朝廷から支給されたのは、御鉏友耳建日子という名のお伴が1人に柊で出来た長い矛が1本だけ。
頭のネジがほとんど抜けた倭建にも、父・景行天皇の意図が何となく読めました。
彼は再び伊勢国(三重県)に住む叔母の倭比売のもとを訪れ、今回ばかりはさすがに愚痴をこぼします。
ちくしょう…
お父はワシに、死ね言うとるんじゃ…
まぁ甥よ、ええもんやるから
これで気張ってきんさいな
倭比売は落ち込む倭建に、後に三種の神器のひとつに数えられる霊剣・都牟刈太刀と、何かが入った小袋を授けました。
この袋は、ガチで万一の時にだけ開けるんやぞ?
帰ってきたド〇えもんかな?
ちなみに、この時倭建が受け取った都牟刈太刀は、須佐之男が八俣遠呂智を退治した際に手に入れた、あの都牟刈太刀です。
あの都牟刈太刀はコチラ!
再び倭比売から重要アイテムを授かった倭建は、がっくりと肩を落としながらも、とぼとぼと東方に向けて旅立ちます。
その途中、尾張国(愛知県)に立ち寄った彼は、その地の国造の祖となる女神・美夜受比売と出会いました。
2人は意気投合して結婚も考えますが、今の倭建は東征の使命を帯びた身、彼らは婚約だけ交わして一旦別れます。
倭建はそれからも、荒ぶる神々や朝廷に従わない人々をボコボコにしてまわり、東に向けてグイグイと進んでいきました。
彼らが相模国(神奈川県)に入った時のこと、現地の国造がこんな相談を持ち掛けてきます。
実は荒々しく恐ろしい神が住む沼がありましてのぅ…
先生のお力で、どうにかなりませんですやろか…
おっし、任せとき!!
倭建が件の沼に赴くために野原に入ると、突如として四方を炎に囲まれてしまいました。
火を放ったのは例の国造、倭建の進撃を快く思わない勢力が、彼を罠に嵌めようとしたのです。
はっはっは~!
万事休すだなぁ若造め!!
事実大ピンチに陥った倭建は、必死に打開策を考え、叔母の倭比売から授かった謎の袋を思い出します。
『ウソ8〇0』~!!
…じゃない、火打ち石かいな
あっ、なるほど!!
倭建は、都牟刈太刀で草を薙ぎ払って身の回りから燃えるものを失くすと、火打ち石で火を起こし向かい火をつけました。
こちら側からも草を燃やすことによって、迫りくる炎の勢いを弱めることが出来るのです。
全身煤だらけになりながらも無事に脱出した倭建は、卑劣な奸計を巡らせた国造の一族をすべて斬り伏せ、火を放って焼いてしまいました。
人に卑劣とか言えた口じゃないけどね
この出来事により、その地は焼津(静岡県焼津市)と呼ばれるようになったと伝えられています。
※このエピソードの舞台は、正確には駿河国(静岡県)だったとも言われています。
また、草を薙ぎ払うことで倭建の命を救った都牟刈太刀は、この逸話が由来となって「草薙剣」と呼ばれるようになり、後に天皇家の権威の象徴である「三種の神器」のひとつに数えられることになります。
ずっと思ってたんだけど…
的確なお助けアイテムを寄越す倭比売って何者なの?
彼女は伊勢神宮の縁起にも関わる
ほどの能力を持つ巫女だったとされているよ!
予言者的な力があったのかもね!
自身も倭建ばりに各地を渡り歩いた経験があるので、
多少感情移入したのかもしれんのぅ…
倭比売も40年近く放浪したよ
九死に一生を得た倭建は、へこたれることなく東に向けての旅を続けます。
さー!ガンガン行くぞーー!!
身を挺した妻のおかげで荒ぶる海神が鎮まり、道が開ける【東征完了】
一行が相模国(神奈川県)を出て、上総国(千葉県)に渡る走水海(浦賀水道)に差し掛かったころ、次なるトラブルが発生しました。
倭建はこの狭く潮流の早い海峡を渡ろうとしますが、その日は嵐が吹き波が荒れ、船は同じところをぐるぐると回るばかりで一向に先へと進まないのです。
う~ん、この辺の海神が怒り狂っとるのう…
どうしたものか…
彼が対応に困っていると、旅に同伴していた倭建の妻・弟橘比売命が一歩進み出てこう言います。
わたくしが海神の妻となり、
その怒りを鎮めてご覧にいれましょう…
ぎょぎょっ!!?
古来より、荒れる海を鎮めるためには生贄を捧げるのが一番だと信じられてきました。
海神のもとに嫁ぐという事はつまりそういう事であり、弟橘比売は、自ら人身御供となることを買って出たのです。
いくら使命を果たすためとはいえ、愛する妻をみすみす死なせるなど、簡単に受け入れられることではありません。
そんな倭建の心情を察してか、弟橘比売はこう付け加えます。
あなたには、東征を果たすという大義がある
その成功を景行天皇に報告する責務があるのですよ
ぐぬぬ…
背に腹は代えられぬと判断した倭建は、荒れ狂う波の上に8枚重ねの菅の敷物、8枚重ねの獣皮の敷物、8枚重ねの絹の敷物を敷くと、その上に弟橘比売を降ろしました。
しばらくして彼女の姿が波間から消えると、走水海の波は自然と穏やかになり、一行は無事に海峡を渡る事が出来たのです。
弟橘比売は夫に別れを告げて入水する際、最期にこのような歌を詠みました。
さねさし
相武の小野に
燃ゆる火の
火中に立ちて
問ひし君はも
(意)かつて相模の燃え盛る炎の中で、あなたは私を救ってくださいましたね
倭建編にしてはまともに切ない話
のところ申し訳ないのだけど…
弟橘比売とはどこで出会ったの?
実は、倭建と弟橘比売の出会いについては、『古事記』にはその詳細が記されていません。
上記の歌から察するに、後に焼津(静岡県焼津市)と呼ばれる小野の地での火攻めの際、巻き込まれた弟橘比売は、倭建にその命を救われていたのでしょう。
自身の命を投げうってまで夫の活路を切り拓くという彼女の行動には、この時の恩返しの意味も含まれていたのかもしれません。
わぉ、正統派の悲しい純愛物語ね
自己犠牲の物語は古来よりテッパンじゃからのう
『常陸国風土記』では、
2人がのどかに暮らした様子も描かれているよ!
それから7日後、弟橘比売が髪に挿していた櫛が、倭建のもとに流れ着きました。
櫛には持ち主の魂が宿るとも考えられていたので、彼はそれを妻の霊代(霊の代わりとなるもの)とし、弟橘比売のために立派な墓を築きます。
倭建もよほど弟橘比売が恋しかったのか、しばらくの間は彼女に対する未練を捨てきれない様子を見せ、その言動はさまざまな場所の地名の起源となりました。
一行が無事に港に到着した際、倭建が妻恋しさに幾日も海岸をさまよっていたことから、その地は「君不去」と呼ばれるようになります。
現在の「木更津」のことよ
また、旅の一行が後に足柄山(神奈川県箱根)の坂の上に登った際、倭建が走水海の方を見て、
吾妻はや…
(ああ、我が妻よ…)
と呟いたことから、足柄より東の方を「東」と呼ぶようになったそうです。
さらに、弟橘比売が身に着けていた着物の袖が流れ着いた場所は、「袖ケ浦」と名付けられたとも言われています。
いずれにせよ、愛する妻の犠牲のもとにやっと拓けたこの道、中途半端は許されないと決意を新たにした倭建は、気合十分に上総国(千葉県)へと入り東征の旅を続けました。
何かこのあたりの倭建は、
やけに人間味がある感じがするわね
さまざまな地方伝承がひとつに集約された結果、
「倭建」なる人物が生まれたというのが定説じゃ
多面的な性格を持っとるもの無理なかろう
それからの彼はまさに破竹の勢い、荒れ狂う蝦夷をことごとくぶちのめして平定し、朝廷に従わない山や川の荒ぶる神々をも次々と帰順させていきます。
以下のルートで諸国を周ったよ!
- 甲斐国(山梨県)
- 信濃国(長野県)
- 美濃国(岐阜県)
もはや我らに逆らう者なし、ついに東国の平定を完了した倭建は、意気揚々と帰路につきました。
その道すがら、彼はかつて結婚の約束をした美夜受比売が待つ、尾張国(愛知県)に向かうことにします。
さー!ゴンゴン戻ろーっ!!
【最終回】慢心?驕り?英雄は道半ばで倒れ白鳥となり飛び去る【辞世の歌ラッシュ】
東征の使命を果たした倭建は、堂々たる面持ちで尾張国(愛知県)へと帰還し、婚約者である美夜受比売のもとを訪ねました。
2人は約束通り結婚し、しばらくは尾張の地での新婚生活を楽しみます。
ある日倭建は、伊吹山(岐阜県・滋賀県にまたがる山)に棲むという荒ぶる神を平定するために出立します。
しかしこの時の彼は、
片田舎の荒神なんぞ、素手でぶっ飛ばしたろうやないかぃ!!
なんせわし、西征と東征の英雄ぞ…?
と嘯き、美夜受比売の心配もよそに、伝家の宝刀・草薙剣を家に置いたまま出かけてしまいました。
しばらく後、伊吹山の麓をズカズカと進む倭建の近くに、牛のように大きな白い猪が現れます。
ほほ、何やら面妖な畜生じゃ
きっと山の神の遣いに違いない
今は見逃して、後で屠ってぼたん鍋にでもしてくれよう!
かっかっかっ!
(ブチッ…)
倭建には人(神)を見る目があまりなかったのか、その白い猪こそが伊吹山の神であることを見抜けませんでした。
黙れ小僧!!!
侮辱されたことに怒った伊吹山の神は、その強い霊力で祟りを起こし、大粒の雹を激しく降らせて倭建の身体を打ち据えます。
ぐ、ぐぇぇぇ…
正常な判断力をほとんど失うほどに惑わされた倭建、やっと正気を取り戻した時には、彼の身体はすっかり衰弱していました。
杖にすがるようにしてやっと歩けるような状況で、ついに弱気になった彼の足は、自然と故郷の大和国(奈良県)の方に向けられます。
あぁ~ヤベェ、なんちゅうこっちゃ…
伊吹山の神の祟りによって、これまでの無双っぷりからは想像できない程に病気がちとなってしまった倭建。
それでも彼は、力を振り絞って故郷へと歩を進めました。
途中で立ち寄った場所では、自由に歩けないことを嘆いた倭建が
まったくこのあたりは「たぎたぎしい」ね…
※道がでこぼこして歩きにくい
と愚痴をこぼしたことから、その地は当芸野(岐阜県養老郡養老町)と呼ばれるようになりました。
また、彼が杖をついてよろよろと登った坂は、杖衝坂(三重県四日市市)と名付けられます。
日に日に弱っていく身体と悪化する病状を押して旅を続ける倭建は、能煩野(三重県鈴鹿市付近)にたどり着いた際、故郷を偲んでこんな歌を詠みました。
倭は 国のまほろば
たたなづく 青垣
山隠れる
倭しうるはし
(意)重なり合い、青い垣を巡らしたような山々に囲まれた大和国は本当に美しい
倭建は自身の死期を悟ったのか、はたまた既に走馬灯が見え始めていたのか、自身の感情を吐露するかのような内容の歌を次々と詠みます。
命の 全けむ人は
疊薦
平群の山の
熊白檮が葉を
髻華に挿せ その子
(意)命の満ち溢れている人たちは、平群の山の樫の葉を髪に挿して、生命を謳歌すると良いよ
愛しけやし
我家の方よ
雲居立ち来も
(意)懐かしい我が家の方から、雲が湧き昇っているなぁ
ここで倭建の病状は急激に悪化し、ついに彼は人生最期の歌を詠みました。
嬢子の 床の辺に
我が置きし
剣の太刀
その太刀はや
(意)ああ、美夜受比売のところに置いてきたわしの草薙剣よ、ああ、あの太刀よ…
そこはせめて美夜受比売の方を思い出してあげて欲しかったわ
これ、今はそっとしておきなさい
巫女の加護を受けた霊剣・草薙剣を置いて出かけてしまったばかりに、山の神の祟りを受けて瀕死の状態になってしまった…
倭建は、強い悔恨と絶望を感じながら息を引き取りました。
ただちに早馬が大和国(奈良県)へと送られ、景行天皇たちに悲報が伝えられます。
訃報を聞いた倭建の妻子たちは急ぎ現地に駆け付け、すぐさま彼の墓を造営し、厳粛な葬儀を執り行いました。
残された者たちが泣きながら歌を詠むと、倭建の霊魂は白鳥となり、海辺へと飛んで行きます。
妻子たちは足の痛さも忘れてその後を追いますが、白鳥は河内国の志磯(大阪府柏原市)に一旦留まったのを最後に、天空の彼方へと飛び去ってしまいました。
それから彼がどこに行ったのか、誰も知りません。
残された美夜受比売は、夫が遺した草薙剣を祀るために熱田の地に社を建て、これが熱田神宮の起源となりました。
長い旅を続けた草薙剣は最後の主人の手を離れると、熱田大神として信仰されるようになったのです。
なんか無茶苦茶なやつだったけど…
父親に愛されるために頑張ったのかなと思うと…
なかなか切ない話よね~
手の付けられない荒々しさはあったけど、
根は純粋だったとも言えるよね!
不運な最期を迎える主人公
いわゆる「判官贔屓」というやつで、古来より日本人に好まれる物語のパターンじゃな
さすがワシ、引き際も芸術的じゃ!!
長かったけど、最後まで読んでくれてサンキューじゃい!!
今回ご紹介した倭建の物語は、基本的には『古事記』に準拠したものとなっています。
もちろん『日本書紀』にも彼の冒険譚は描かれているのですが、実はその内容が『古事記』とはかなり異なっているのです。
ざっくりと違いをまとめてみるぞい!
比較ポインツ | 『古事記』 | 『日本書紀』 |
---|---|---|
倭建の性格 | 兄・大碓命をバラバラにしてしまう凶暴性をもつ | 兄の命を奪うシーンは描かれず、残酷な側面のない勇敢な少年として登場 |
父・景行天皇の性格 | 自分は大和から一切動かず、ろくな装備も資金も与えずに息子を死地に追いやる、まるでド〇クエの王様 | 自分から積極的に遠征に出ており、熊曾建討伐も自身の軍団で成し遂げた※倭建派遣は熊曾の第二次反乱の折に行われる |
東征のきっかけ | 父に疎まれたことから、西征の疲れを癒す間もなく出陣の勅命を受ける | 東征を命じられ怖気づいた兄に代って自ら志願し、休むことなく東方に旅立つ |
倭建逝去に対する父の反応 | 特になし | 息子の死を大いに悲しみ、彼の事績を惜しんで東国への行幸に出る |
『日本書紀』では、より分かりやすい
王道モノのヒーローとして描かれているわね
『日本書紀』が海外向けであることを考えると、天皇も
しっかり活躍していないと格好が付かないんだろうね!
天皇家の身内にヤバイ奴がおるのも、
政治的には良くないじゃろうからの
君たちはどっちのワシが好きだったかな!?
圧倒的な力を誇りながらも、父に疎まれて失意のうちに没した日本神話の悲劇のヒーロー・倭建の物語はこれにて完結です。
次回は、倭建の息子である第十四代仲哀天皇とその后・神功皇后の物語をご紹介します。
お楽しみに!
…to be continued!!!
次回はコチラ!
おわりに
今回は、日本神話において燦然と輝く英雄譚、『倭建命の遠征』について解説しました。
狂った凶暴性をもちながらも父に認められるために体を張る…
なかなか不安定な性格が彼の魅力でもあるのかもね
悲劇的な最期を迎える主人公ってのは、
どうしたって心に残るものだよね!
パパトトブログ-日本神話篇-では、私たちの祖国に伝わる魅力的な神々や彼らの物語をご紹介していきます。
神さま個別のプロフィール紹介や神話の名場面をストーリー調で解説など、難しい言葉は出来るだけ使わずに、あらゆる角度から楽しんでもらえるようにしようと考えています。
これからも「日本神話」の魅力をどんどんご紹介してきますので、良ければまた読んでもらえると嬉しいです!
また来てね!
しーゆーあげん!
参考文献
- 倉野憲司校注 『古事記』 岩波文庫 2010年
- 島崎晋[監修] 日本博学倶楽部[著] 『日本の「神話」と「古代史」がよくわかる本』 PHP文庫 2010年
- 由良弥生 『眠れないほど面白い『古事記』』 王様文庫 2014年
- 由良弥生 『読めば読むほど面白い『古事記』75の神社と神さまの物語』 王様文庫 2015年
- 歴史雑学研究倶楽部 『世界の神話がわかる本』 Gakken 2010年
- 宮崎市神話・観光ガイドボランティア協議会編集 『ひむか神話伝説 全212話』 鉱脈社 2015年
- 中村圭志 『図解 世界5大神話入門』 ディスカヴァー・トゥエンティワン 2020年
- かみゆ歴史編集部 『マンガ面白いほどよくわかる!古事記』 西東社 2017年
- 戸部民夫 『「日本の神様」がよくわかる本』 PHP文庫 2007年
- 三浦佑之 『あらすじで読み解く 古事記神話』 文藝春秋 2013年
- 國學院大學 「古典文化学」事業:https://kojiki.kokugakuin.ac.jp/research/
- 茂木貞純監修『日本の神様ご利益事典』だいわ文庫 2018年
- 武光誠『知っておきたい日本の神様』角川ソフィア文庫 2005年
- 阿部正路監修『日本の神様を知る事典』日本文芸社 1987年
他…
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